秋。この世は何で美しい。
あと何回、この季節を眺められるのかと思うと、一日一日を味わい尽くして終えたいもの。
今日の木の葉の色と、来週のそれは違うから。
明日の木の葉の色は同じでも、空の色が違うから。
家にこもって原稿を書いていら場合ではない!
外に出て、音を聞いて、風を受けて、鳥の囀りに浸りたい。
いよいよ殺人的な猛暑も去り、凛凛と虫の音が響く、秋の日々が始まった。
武蔵野が一番美しい時期、自然が一番美しさを増す時期、散歩きがことのほか気持ちの良い季節になった。
夏の冷房化でギシギシに凝り固まった体をほぐすべく、なるべく一週間のうち3,4日は歩くことにした。
持ち物は、飲み物と本。たまにノートとペン。
テクテクテクテク歩き、道端に咲く花を見たり、見慣れない実をつついてみたり、ススキを仰ぎ見たり、見たことない雑草を触って気づいたら、服がイガイガだらけになったり。
秋。一年で一番好きな季節。
今度はゆっくりお絵描き帖や、長編小説、たっぷりかけるノートを持ってくるのもいいね。
コーヒーや軽食や、シートも持って、どっかと居座るのもいいね(荷物多くなるけれど)。
家のどこかに眠っているカメラを出動するのもいいね(まず使い方を習わなきゃだけど)。
そんなこんなで、9月が終わるね。
30歳前後でライターを始めて15年ほど。「仕事は極力断らない」を信条にやってきた。
フリーランスたる者、仕事を断ったら次は来ない。
そんな恐れもあったし、シンプルに「頼まれたら嬉しい」というのが新規の仕事を受けるモチベーションにもなっていた。以前出した仕事がダメダメなら、次は来ないわけで、それでも依頼してくれるというのは、とりあえず前の仕事は及第点だったよね、と思えてきた。
人生押しなべて勉強ができる部類ではなかったからこそ、「評価」されると純粋にうれしい。
だけど、気づけば人生後半戦。
降ってきた仕事を断らずに来たら、案外息苦しくなっていることに気づき始めた。
「できる仕事」と「できない仕事」があり、だけど「できない」と認めることは怖いこと。「無理です、できません!」とは、プライドも邪魔してなかなか言えない。同様に、「子供がいるのでできません!」も言いたくなかった。「家事育児との両立がもうできないんです」とはなおさら負けを認めるようで嫌だった。
独身の頃と同じように成果を出すのがプロのライターだと思ってきたから。
でもね、最近思う。
「もう無理、できません」って言ってもいいんじゃないかと。
「好き・嫌い」で仕事を選んでもいい年齢なんじゃないかと。
もっと正確にいうと、「嫌い・苦手」なことを克服しようとする努力をじっくりしているほど、私の残りの人生長くないんじゃないかと気づき始めたということ。
だから決めた。自分のなかで「受ける仕事」と「断る仕事」を明確に決める。
若いころは、「苦手」なものも食べることが経験に繋がったけれど、そろそろ「本当に苦手」なものは、これ以上努力しても「好き」にはならないことがわかってきたから。
これからはね、「好き」を突き詰めるよ。
人生を「好き」で埋めてくよ。
百日紅が満開な8月の決心。
5月。晴れても雨でも、美しい季節。いつの間にか咲いているハナミズキも、なんてことない葉っぱに散らばる水の玉も美しい。
こんな自然もほとんど見れずに家にこもって原稿書き。
本気で生活を変えたいと思う今日この頃、というかここ数年……。
仕事があるのはありがたい限りだが、本当にそろそろ選ばないと、体力気力もまっしぐらに下降する中、生きている気がしないどころか、長生きもできなさそう。
もっと子どもとのんびり散歩したり遊んでいる姿も眺めたいし、趣味の金継ぎも書道もしたいし、語学の勉強もしたいし、読書もしたいし、庭いじりもしたいし、料理もしたい。それらが全くできていないこの数年。これが私の人生か?
とりあえず、今年の目標。書籍を断る。他人の本を一冊書く仕事を断る。
取るに足らぬ雑文でいいから、自分の文章をつらつら書きたい。
自分の体験を大切にしたい。
歩いて、見て、聞いて、感じて、片づけて、つくって、しまって、読んで、書きたい。
猫の額ほどの我が家の庭にも,春が来た。
モッコウバラ,チューリップ,すみれ、アカシヤ。
特にモッコウバラは、昔から好きだった花。つくづくなんて可愛らしいんだろうとニヤニヤ。
他にも、ユーカリポポラスやライラックや,はなみずきや、ユキヤナギや、あれこれ欲しいのだけど,そこは猫の額ほどの我が家の庭。残念ながら物理的,空間的に制限がある。
だけど、何かしらまだまだいろいろできそうよね。
ほんの小さな地面でも、しっかり根を張る植物たち。庭化計画・これから始動。
妄想ばかりが膨らみ,なかなか重い腰が上がらない私だけど。今年はもう少し、「庭」を広げたい。夢は、パラソル付きの椅子テーブルセットを置きたい。
現状は、小さなローテーブルにキャンプ用に椅子。
アカシアの枝の下に隠れるようにしてコーヒー飲むよ。
それでも、小さな幸せ。
それにしても、猫の額って、,誰が言い出したのかな。不思議。
正月。送られてくる年賀状がめっきり減った2025年。人徳の無さは棚の上に置いておいても、宣言あるなしに関わらず、年賀状じまいする人が増えた。
まあ、たしかにね。郵便代は上がるし、いろいろモノの値段も上がるし、手間はかかるし。正直、私もここ十年来、いっそ年賀状やめてもいい気はずっとしているが、さりとて年賀状すら送るのをやめたら、もう一生この人とは会うことも、連絡を取ることもないんだろうなぁという人が何人もいる。
一年に一回、せめて一方的なはがきを送りつける習慣くらいは続けたい。それを辞めたら、もう一生会わないくらいの関係性の人なら、あえてはがきを送り続けることもなかろうと思いはするが、しかし、もう一生会うことはなくても、せめてその人がこの世に生きているのかどうかくらいの安否確認くらいはしておきたい……という、非常に曖昧なこの感覚。
かつて「親友」と呼び合った友と縁が切れてはや11年。会いたくないなら会わなくてもいいが、もはやその人が生きているのか死んでいるのかくらいは知りないなぁと思う齢の今日この頃。
昔から、人間づきあいもまめでないので、これまで付き合いのあった人とも、環境変化のたびに、縁が切れてきてしまった。だからこそ、せめて年賀状だけでもか細い糸でつながり、年に一回の近況報告くらいは知りたいと思ってしまう。
そんなこんなで今年も年賀状を用意したが、昨年よりはるかに「年賀状しまい」の連絡が増えた。連絡なしに、辞めたんだろうなと察する人はさらに多い。
この場合、向こうが年賀状しまいをしても、返信無用でこちらから送り続ける……のはアリかナシか。ただ、今年年賀状を送った相手から、「ありがとう、今年から終いました」という連絡をわざわざメールで返してもらう手間を考えると。しかも、その相手の情報が自分のスマホに入っておらず、「……あの、どちらさま?」と返す勇気もなく、放置している状態を考えると。
さて、来年からどうするか。すでに正月から悩ましい一年の幕開け。
とにもかくにも、今年もよろしくお願いします。